資本主義とケアの関係
最近、現代日本の資本主義・自由主義の浸透と、第一次産業の衰退、超少子高齢化の関係を考えています。物価高や少子高齢化などが人々の将来への不安を強め、その対処として教育負荷の増大や女性への役割転換(ケア労働の再配置)が起きているのでは、という仮説を立てました。
「ケアを中心に置いた社会」
「ケアを中心においた社会」という考え方を深掘りしていたら、“自分が努力せずに手に入れたものを、人は自分の実力と勘違いする”という言説を目にしました。
そこで、家庭内で日々起きる無数のケア(愛情ゆえの行為)が、この価値観や世界認識の源になっているのではないかと考えました
ケア中心の社会で経済は回るのか?
産業とは本来暮らしのためにあったはずなのに、今は人が産業のコマとして優秀さを求められている感覚があるように感じます。さらに、とあるスクールソーシャルワーカーとの対話のなかで「特性」という言葉が話題になりました。学校内の問題行動がすぐ「特性」に帰属され、その子の置かれる環境を無視し、個人の責任として解決を図る風潮への強い違和感を感じます。
では、ケア中心社会でも経済は回るのか?その答えとして、長期的に回る経済の前提がケアである可能性を強く感じています。
経済の原型は「困りごとやニーズの解決」「ケアの外注・共有」であり、成長率至上主義・効率化の暴走・数値化できないものの切り捨てにより“人のための経済”が“数値のための経済”へ転倒した構造の弊害が、いまあちこちで可視化されているのではないかと捉えています。
そのうえで、ケア軽視は中長期コスト(メンタル不調、離職、医療福祉費、分断)を増大させ、予防としてのケアを前工程に組み込む方が社会全体の持続性が高いでしょう。学校現場の「特性で封じる」傾向は、解決ではなく責任移動であり、ケアを医療・福祉の力で外注化する減少が起きている点をここで指摘したいと思います。
「不安の解消でなく、安心をシェアしあえる社会」
私個人としては、今はこうした日本社会の構造への怒りを超えて、「不安の解消でなく、安心をシェアしあえる社会」を目指す行動を私自身が選び続けていく覚悟をもっています。このCIRCLEという私のもつ思想は完成形の理論ではなく、安心を選び続けた行動の軌跡があとから思想になるものだと考え、「個人→家族→地域→制度」へと同心円状に広げるルートが最も壊れにくい社会実装では、という感覚を得ました。このあたり、もう少しではっきりと言葉にできそうです。
